所蔵していた村上春樹を全てブックオフで処分したこと。そして僕が村上春樹から学んだ最大のこと。

僕はいまちょうど40歳で、はじめて村上春樹の本を買って読んだのは中学1年生のときでした。今からうん十年前のことです。

 

最初に読んだのは、たしか糸井重里との共著「夢で逢いましょう」か「カンガルー日和」だったんじゃないかと思う。短編から読みはじめた。まだ、長い小説を読むということに慣れていなかったこともあるし。

そして数冊目に処女作『風の歌を聴け』を読んだ。読み終わったあと、びっくりというかなんというか、少し驚いた。その小説にはストーリーという程のストーリーがなかった。これは僕のなんとかノートだとか書いてあった。小説を読んでみたら筋が無かったのは全くはじめての体験だった。

 

読了後しばらくして、この本のことが気になりだしたので、もう一度読み返してみた。1回目に読んだ時より面白かった。次に、もう一回読んだ。さらにまた面白くなった。

そのようにして村上春樹、村上作品にハマっていき、高校の入学調書の「尊敬する人」の蘭には「村上春樹」と書いた。それをたまたま見かけた姉が「あんたアホか。そこは両親って書くための欄や」と言っていた。

そして、大学進学、就職、なんやかんやのトラブルがあり、いまは結婚もして、子供はいないけど妻と二人でおだやかに幸せに暮らしている。その間村上春樹の作品を読んで、いろいろと教唆のようなものを受け続けてきた。

 

話は急に飛ぶけど、先日、所蔵していた村上春樹を全てダンボール箱に詰めてブックオフに持って行って処分した。買取価格は451円だった。二十数年かけてコツコツと貯めてきた僕の村上春樹コレクションにはそういう値段がついた。

でも、後悔などは一切していない。いらなかったから処分したのだ。一言で言い切るならば、僕にはもう村上春樹が必要ではなくなった。

もちろん村上春樹氏にはこれからも精力的に作家活動を続けていってもらい、ゆくゆくはノーベル文学賞もちゃんと受賞してほしいと思っています。個人的にすごく応援しています。それは昔からちっとも変わっていません。

ただ、もう僕には氏の作品群、氏の文章は必要ではなくなったのです。

 

当たり前だけど、氏の人生と僕の人生は全くの別ものであるし、若いときに生きていくうえで、苦しんだり悩んだりしたときに本当に氏の文章に勇気づけられ、指針をもらい、それを糧に生きてきたつもりです。

ただ、もう40歳にもなったことだし、小さいながら家庭もある。

これからは、本当の意味で自分の頭で考え、自分の力で生きていかなくてはならない。守るべき妻もいる。

手狭になった部屋のスペースを空ける意味と、青春への決別の思いとで、僕は自分の個人的な村上春樹コレクションを処分しました。

 

僕が村上春樹氏の作品を通じて学んだことの最大のものは、『誰に対しても、人に対しても自分自身に対しても常に誠実であり続けること』でした。

 

勝手に感謝などされても春樹さんも困るかもしれないけど、いままで本当に、ありがとうございました。あなたの文章を読んでいなければ、僕はここには立っていなかったです。いま、妻と二人で幸せにやっています。

みんなが本当に欲しいものはお金ではなく、お金のその先にあるという話

今日は、語ります。お金について語ります。

 

よく欲しいものは何かっていうときに、まあ、お金が欲しいなあとか言うじゃないですか。ごく普通に。でも、お金が欲しいっていうのは、言わずもがなで当たり前のことかもしれませんが、物理的なお金が欲しいってわけではないですよね。だって、紙キレと小さな金属なんて使い道がありませんから。

と、いうことは、みんなお金が欲しいとよく言うのは、お金のその先にあるものが欲しいということですよね。つまりお金があれば手に入るもの、もしくはお金を持っていればいつかきっと役に立つ使い方。そういうものが欲しいってことだと思うんです。

じゃあ、実際にお金があって持っていれば、具体的には何が欲しいのか。何がしたいのか。

当然ですが、それは個人個人によって違う、まさに千差万別だとしか言いようがありません。だってお金があればお金で買えるものならば何でも買えるんですから。お金お金って連呼してなんだかちょっと下品ですが…。

まあ、でも、でもですよ?人がお金が欲しいという場合、もし何か具体的にこれが欲しいだとか手に入れたいだとか体験したいものだとかがあったりしたら、お金が欲しいとは言いませんよね。だって、家が欲しければ家が欲しいって言うはずなんだから。

 

それならば、なぜ「お金が欲しい」と人は言うのでしょう。自分は言ってしまうのでしょう。

 

それは、みんな別にきれいな絵柄の透かしの入った紙キレが欲しいわけじゃなくて、ただ、いつでも好きなときにほぼ世の中のものが大抵何でも買える自由だとか選択権、一言で言えば権力みたいなものが欲しかったり、将来どんなことがあっても大丈夫だという安心感が欲しかったり、きっとそういうものが欲しいんだって思います。

 

でも、なかなか人に「何が欲しい」って聞かれて、「自由」とか「力が欲しい」とか「安心感が…」とは言いにくいですもんね。それに、自分でも本当に自分が欲しいものなんて、なかなかわかりませんものね。

 

当たり前すぎてわざわざ書いて残すほどのものでもないかなーと思いもしましたが、今日はお金について語ってみました。

女子高生でもないのに言葉を略すなみっともない

ごくごく普通の人が日常会話で言葉を略すのが嫌い。虫唾が走るとまでは言わないけど、ゾワゾワする。

例としては、上司が使う「ドロップボックス」→「ドロップ」、姉が使う「ツイキャス」→「キャス」などなど。

あと伊勢市民がよく言う「ララパーク」→「ララ」なども嫌い。

ウィキペディア」を「ウィキ」と言ったりするのは意味合いが違ってくるのでそもそもアレだけど、「ドロップボックス」ぐらい略さずに言えよ。なんだよ「ドロップ」って。飴か。

テレビを字幕放送で見るようになっての所感(耳が悪いわけではありません)

ほら、字幕放送ってあるじゃないですか。テレビでしゃべってる言葉が文字テロップで表示されるやつ。たぶん聴覚障害者とか耳の悪いお年寄り向けのサービスだと思うんですけど。病院の待合室のテレビとかがそうなってて前から気になってたんですよね。あとはネットのテレビキャプチャ画像でもよくそうなっていて。

でもリモコンを見ても「字幕」ボタンなんてなかったし、気にはなりつつもずうっと放っておいたんですけど、ぐぐってみたらやり方がわかったので設定してみました(機種によってやり方は違うみたいで、字幕ボタンが付いているものもあるそうです。ちなみにうちのテレビはREGZA32A1)。

 

23週間字幕放送を使ってみての所感をば。

 

  •  バラエティ番組ではあまり意味が無い

     そもそも最近のバラエティ番組はふだんからトーク内容の大半が字幕テロップで表示されています。なので字幕放送で見ても、通常時のテロップにちょっと字幕を足す程度といった感じで今までとさほど違いを感じません。

  • スポーツ中継(生中継)では実況や解説と数テンポのラグがある

     当たり前ですが、生中継番組の際は事前に何をしゃべるか決まっているわけではないので、リアルタイムに字幕が出るわけではありません。誰か専門の人が文字起こしをしているのか、音声認識技術を利用しているのかはわかりませんが、実際のしゃべりと字幕に数テンポのタイムラグがあります。ただ、これはこれで早口で聞き取れなかったりした時に「なんて言ったのかな?」と意識して字幕を見る(少し待つ、というか身構える感じ)ことでちゃんと理解できるという効用もあります。サッカー中継のときに専門用語が混じってたり、知らない選手の名前が出てきたときに理解しやすかったりしました。

  • ドラマを見るときが一番真価を発揮する

     生中継と違い、ドラマで字幕放送に対応している番組は事前に字幕が用意されているので、セリフと字幕のタイミングはドンピシャです。しかも通常時はバラエティ番組と違ってドラマ番組にセリフのテロップが出たりはしないので、ぐっと視聴が楽になります。楽になると言っても、別に音声が聞き取りにくいのが解消されるとかそういうことだけではなくて、「ながら見」が捗る感じです。耳だけじゃなくて目でも情報が入って来るぶん、テレビに対する集中力が比較的少なくて済むと言えばわかっていただけるでしょうか。

  • もちろん音声を小さくしたときに見やすい

     夜、妻が早く寝てしまって、じぶん一人だけ起きてテレビを見ている(付けている)ときもあるのですが、そういうときに音声をかなり小さくしても内容がわかりやすいです。まあ、もともとそのためにあるものだから当たり前だけど笑

 

総括・耳が悪いわけではない場合、字幕放送でテレビ番組を見ると、視聴体験が劇的に変わるというほどではないが、いくぶんテレビを見るのが「楽」になる。字幕放送に慣れると、字幕を消したときに不便に思うかもしれない。

 

ちなみに妻は自分よりも耳が聞こえにくいので字幕放送に設定したら喜んでました。

鉛筆あるいはシャーペンの芯における「F」の存在

少し前になるのだけど、妻と二人でテレビを見ていたら「最近の子供は筆圧が弱くなったので2Bの鉛筆が普及している」という話をやっていて、「自分らのときはHBが標準だったよねー」なんて話をしていました。

その流れで「自分は筆圧が強いからHやFを使っていた」と言ったら、妻が「F?Fってなに?」と言って来て、「HBとHの中間」だと教えてあげました(妻はわりあいモノを知らない)。

「F」って特別感がありますよね。「H」と「B」の2つからなる鉛筆の硬度表記の階調の中に突如として現れた異物というか。

その話をしていて、自分は子供のころからちょっと変わったもの、人と少し違うものが好きだったんだなと。今でもその傾向は変わってなくて、『三つ子の魂百まで』とは昔の人はよく言ったもので。

このブログをはじめるにあたって

とりあえずアカウントを取得しました。特に方向性も決めていませんし、タイトルすらまだ何も考えていません。ただ何かを書きたかった、書き残して置きたかった。「小説」でもなければ「エッセイ」でもなく、「日記」でもない。「ブログ」が書きたくなったのです。このはてなブログを登録した直後の画面に「はてなブログへようこそ! 日々の生活、喜びと悲しみ、特別な出会い、ちょっとした考えや思いつきをブログに書き残してください。」とありましたが、まさにそういう感じのことが書きたかったのです。

というわけで、何かしら日常の中で感じたこと思ったことなどを140文字以上の言葉で書き残して置きたいと思います。現実に自分の身の回りで何が起こったかを詳細に書くわけではないかもしれませんが、離れて暮らす友人知人に向けての広い意味での近況報告的な側面も持つことになると思います。いま、midunozが、どういうことに興味関心を持って何を考えているのかを伝えるという意味で。

なるべく余計なところには力を入れずに続けていければと思います。よろしくお願いします。

最後に余談になりますが、先日ようやく思い切ってkindleを購入しました。想像していたよりも使い心地が良くて使い道もありそうでびっくりしました。いまは昼休みに無料で落とせる漫画を読んでいます。買って良かった。おすすめ!